日本経済新聞の文化面において、2013年4月1日から17日にかけて連載された「抑制された思い」において、ご執筆された岩手県立美術館学芸員の大野正勝氏が、“心地よい”と評されていた作品が三点ほどあり、“ここちよくあってはならない”と宣言した岡本太郎氏を想起せざるをえず、考えさせられることがありましたので、感想を記しておきたいと思います。
まずは、東島毅「思惟の光」(作家蔵)
http://www.tsuyoshihigashijima.com/works/work2010.html
東島氏は、「自分では描けない線や形」を体験させてくれる「・・・土の様子、・・・水たまりの形」などに、「一瞬『思し召しの光』を受けたようだ」と感じて、創作されていらっしゃるとのこと。
画家であれば誰しも、そうした思し召しの光を『何とか画面に形として作り出したい、留めたい』と願うのは必然でしょう。
この絵を眺めるとき、ある種の音楽(例えばドビュッシーあたり?)に浸っているときのような感興を覚えるのではないか・・・と想像されますが、それが大野氏の感じた“心地よさ”と同質であるかは想像がつきかねます。
いずれにせよ、東島氏の芸術的欲求から生み出されたこの油彩が、見る者に単なる“心地よさ”を伝えようとしたものではない、というのは確かだろうと思われます。
http://www.city.setouchi.lg.jp/museum/sataketokugahakunitsuite/1418382095413.html
(上から3つめ)
この絵の前で、大野氏は、『しばらく動けなくなった』と述べておられます。
『風通しが良くなるような心地よさの中で、・・・視界が理由もなく潤み、心が軽くなって行くのを感じていたのだ』と。
東島氏が“思し召しの光”を描き留めようとしたのに対し、『澄み渡った』景色、『清々しい』木々が描かれたこの絵からは、確かに“心地よい風”が吹き寄せてくるのを素直に感じることができるように思われます。
そのようなこの“心地よい”油彩が、芸術として成り立っているのはナゼか?
佐竹氏の『情感を抑制した筆致』が、五感で認識しうる牛窓のオリーブ園そのものではなく、自らのうちにある善なるものに気付かせてくれる(『命が洗われていく』)からであろうと思われます。
芸術家が、人間の善性に信を置くことによって、『豊かな世界』を現出させることに成功したという幸福な結び付きの好例ではないでしょうか。
最後に、本田健「山あるき 十一月」(岩手県立美術館蔵)
http://www.ima.or.jp/search/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&lang=ja&data_id=10540
大野氏は、『こんな森の中を歩いたことがあると自身のことを思い出す。それは何故か懐かしく、そして心地よい。』と述べておられます。
しかし、私には、本田氏が『チャコールペンシルで写真のように淡々と描き上げ』たこの大画面からは、『恐れにも似た神聖なもの』を感じることは出来ても、“心地よさ”を感じることはできそうにもなく思われます。
むしろ、地獄における果てしのない苦行のような制作過程が忍ばれます。
そのような芸術家の苦闘を≪どこでもドア≫にして、見る者が“心地よさ”を手に入れることなど許されるのでしょうか?
そんなことを考えていて、ふと等伯の松林図屏風を思ってしまいました・・・
『木々が放つ独特な香が漂う昼なお暗い森閑とした空間』に、“心地よさ”を感じるためには、自らの人生において、やはり相応の苦しみを味わっていなければならないような気がしてきました。