いまだ戦後である:「世界を歩いて考えよう」(ちきりん氏)

 

ちきりん氏の著書に関しては、「世界を歩いて考えよう」(大和書房、2012年)も拝読させていただく機会を得、青春時代を懐かしく思い出すとともに、あらためて“安全保障”についても、考えさせられることとなりました。

 

私も、60年代に子ども時代を、70年代に思春期を過ごし、80年代に大学生から会社員へ、と歩んでまいりましたので、ちきりん氏とほぼ同時代の空気を吸ってきたことになります。 

(私を含め、40代から50代にさしかかる世代に、隠れちきりんファンが大勢いることが、実感としてよくわかります。)

 

さて、最初の訪問地、ちきりん氏は英国ヒースロー空港でしたが、私は至極当然のようにL.A.でした。

が、自分がなぜ米国(それも西海岸)に魅かれていたのか? 困ったことに、これがナゼなのか、全くわからないんですよね・・・ 

中学の英語の教科書には、私をL.A.に導く要素はなかったと思いますし、ウエスト・コーストのミュージック・シーンにも、ハリウッド映画にも、Dogersにも、そこまで強い磁力はなかったと思いますので、やはり、戦後“教育”のもとに行われた洗脳によるものでは?と疑いたくなってしまいます。 

(例えば、私の親の世代にあたる “暴走老人” の言動を目にする時、やはり、その時代の“教育”のもとに行われたであろう洗脳の罪深さを感じざるを得ませんので。)

 

話を旅行に戻して・・・ 

大学生になって初めてL.A.を訪れ、UCLAなどをめぐる旅の真似事をして良かったことは、「自分は米国にいてもやっていけるかも」といった、根拠はまったくないけれども、ミョーな自信のようなものが得られたことだと思います。 

旅の経験は、自分の血肉の一部ですから、後に、「国際金融の舞台で活躍できる《かもしれない》よ」と言われて、ちょっぴりその気になれて、実際それらしき仕事に携わることができたのも、米国をこの目で見てみたいという好奇心の賜物であったと思うと、本当にラッキー!です。

 

さて、米国.への憧れが何によるものであったのか定かでないのとは異なり、もう一つの旅の柱となった中国人への興味については、はっきりした理由があります。

それは、小学校高学年の時の担任の先生が、日中戦争時の華北の農村の様子などを語ってくれて、海を隔てたすぐ隣に、日本とは全く違う世界が拡がっている、ということを感じさせてくれたことにあります。 

未知なる世界への興味は尽きないわけですが、ギリシア・ローマ世界でも、アラブ世界でも、イスラーム世界でもなく、中国人の世界(社会・歴史)を研究対象としたのは、結局のところ、その時に感じた不思議な違和感に導かれてのことであったと思います。

 

話を旅行に戻して・・・ 

台湾、香港、中国大陸、韓国といった東アジアをブラブラ歩いていると、どうしても先の大戦の傷痕に触れざるを得ません。 

一つだけ例を挙げますと、香港の大学の学生寮で映画を鑑賞した時のこと・・・映画のストーリー展開自体は覚えていないのですが、「日本が無条件降伏した!」というシーンで、大学生達全員が椅子から立ち上がり、まるで今この場で自分達が日本をやっつけてやったかのように、拍手喝采して大喜びしてました。 

香港の大学生にとって、先の大戦は、決して終わったことではなかったんですよね。

 

東南アジアでも、1970年代前半には反日運動が盛んだったわけですが、『青年の船』といった活動の成果もあってか、80年代初めにシンガポールを訪れた頃には、反日感情が突き刺さってくる感じは受けませんでした。 

その意味で、70年代前半の田中角栄首相の外交は、相当の成果を挙げたと評価できると思います。 

現在、東南アジア諸国のビーチリゾートなどを満喫できることに感謝するとともに、日本人にとって安全の保障された地域がもっともっと拡がっていくことを心から祈念したいと思います。

 

そんなわけで、「世界を歩いて考えよう」のなかで、私が最も重要だと思うのは、『お金の問題ではない』(pp.190-195)というエピソードです。 

近ごろの外交センスのない政治家の方々などの言動を目にするにつけ、戦争をしなくてすむ豊かな国であるために、このテーマについては、多くの人々に《憲法第9条よりも》重く受けとめて欲しい、と思います。